花柳界 新橋の歴史?家康の土木工事で出来た土地

 家康が秀吉に国替えされて、江戸に入りするのは四百数十年前のこと。江と云う字は揚子江、黒龍江など大河を表します。戸は扉で江戸とは大河の扉と云う意味なのです。
 今は多摩川、墨田川、荒川、江戸川と四つの一級河川が東京湾に注ぎますが、家康の頃には、加えて関東一の大河、利根川までもが江戸湾に注ぎました。つまり、雨が多く降るとすぐ水浸しになった当時の江戸、人の数は多くはない処でした。
 江戸に移った家康は大きな土木工事に取り掛かります。利根川の流れを変えるような計画もこの時のもの、因みに三代家光の時代に完成しています。太田道灌が築城した江戸城も日比谷が潮入り岬ですから、この頃は海城と云う趣きだったのでしょう。
 墨田川の下流は当時、大川と呼ばれ、その中州が今の京橋、銀座の多くは海の底でした。家康の埋立てにより出来た土地が銀座。埋めた土は神田山と云うそこそこの山を削って運んだそうです。どこかと云えば今の神田駿河台。直参の家来、駿河衆が削って平らにしたと地名が告げます。余談ですが、しばらく住んだ六本木の裏手は旧町名が三河台、きっと家来の三河衆が削ったのでしょう。戦国と云う命の遣り取りをした時代は築城の必要から土木工事をここまで進化させたと感慨深く思うばかりです。後に新橋花柳界が花開く土地は、こうして生まれました。

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